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新しい健康保険証が届きました
5月から健康保険が切り替わって、新しい保険証が届きました。
カードの名義や生年月日を確認。
そして、ひっくり返して裏面をみます。
【臓器提供に関する意思を表示することができます】
と書かれた案内に続いて、提供の意思に関する選択肢が示されています。
ふー。さて。どうしようか。
以前の保険証の裏面を確認してみました。何も書いていませんでした。
以前もどうしたものかと悩んだ挙句、決断をすっ飛ばしたようです。
今度は暫定的にでも意思表示をしておきたいので、覚え書きをすることにしました。
臓器提供の考え方
自分の臓器で人が救われるのはいいことだと思ってた
まずはじめは、僕の臓器で人が救われるならそれはいいことじゃないか、と思いました。
でも、身体から身体に臓器を移すことを想像した時に、どこか居心地が悪さがあるのです。
他人の臓器が自分の臓器の代替物として、無機物のように
やりとりされるのには違和感があります。
臓器は僕のものであって、家族のものでもある。
ちょっと知識を入れるためネットで調べて見ると、とてもいい記事がありました。
森岡正博さん。早稲田大学教授で「生命の哲学」(これまた面白そうなテーマ」を提唱している方のウェブサイトの記事でした。
「臓器移植の光と影」http://www.lifestudies.org/jp/noshi13.htm
医療側からの視点、ドナー側からの視点、レシピエント側からの視点、それぞれが交錯して統合して、重層的に臓器移植について書かれてあります。
臓器提供の過程というのは、人間の身体が「いのち」と「モノ」の間で揺れ動くプロセスの代表格で、そこでは医学的、唯物的な身体観があり、倫理的、社会的な身体観が交錯しています。
安心できる医療環境はまだない
やはり、モノとして臓器が交換されるというのはに違和感があります。僕は医療現場はあんまり好きじゃない、(馴染みがない)ので、医療機関に臓器を提供するというのは怖いですし、安心感もありません。
でも、たとえば小さい頃からお世話になっているホームドクターがいて、普段からくだらないことを相談できたり、たまには勉強会をしたりしていたら、状況はまた変わってくるのだと思います。
今の僕は、臓器をいのちとして繋いでいく意思と環境が整ってきていると確信が持てたら、自分の臓器を提供してもいい、そう決めることにしました。
それにしても、学校で臓器提供に関する議論なんて一回もしたことがない気がします。
生命倫理や人間性に深く関わっていることだし、しかも身近な保険証にその選択権を記載するのなら、もう少し学ぶ機会や深める機会があってもいいんじゃないかなぁ。
「いのち」は自分だけのものではない
先日、ユーチューブで赤ちゃん縁組のドキュメンタリーをみていました。
【ドキュメンタリー】赤ちゃん縁組〜いつか家族になる日 https://youtu.be/JY3-U4IR4zI?t=261
これも、赤ちゃんという「いのち」をいかに繋いで行くのか、意思のない「いのち」を巡る、提供する側、受け取る側のあり方や社会環境が問われる事例なのだと思います。
「ひな。お母さん、二人いる」
そう素直に言えること。それを暖かくに受け入れられる社会を作っていくこと。そう願っています。